日本の中の韓国(第3回)



日本人至上主義が生んだ三角関係

鈴 木 雅 子



■ 留学生、孫君との出会い


 韓国文化院で開かれたあるレセプションで留学生の孫君と知り合いました。横浜市磯子に住む彼は、とにかくエネルギッシュ。パワーにあふれていて、苦学をものともせず1日の睡眠時間は平均4〜5時間。

 日本に来て1年足らずという彼の毎日は、早朝の新聞配達から始まります。額に汗をびっしょりかきながら新聞配達から戻ると専門学校に。学校が終わると今度は電車で片道2時間かかるという舞踊研究所に。

 本国にいたときから舞踊が好きだった孫君は、韓国の古典舞踊、モダンダンス、ミュージカルと幅広くレッスンに打ち込んでいました。

 「いずれは自分の力で創作ダンスに取り組みたい。芸術に国境はありません。日本人にも韓国人にも同じ感動を与えることができるはずです。2つの国がお互いに仲良く、理解できるようになれば」これが孫君の夢でした。

 ダンスのレッスンがすめば、またもや2時間電車に乗り、横浜のアパートにたどりつくのは午後10、11時といった時間になります。彼は、日本に来てから一度も新聞配達を休んだことがなく、当然、日本の若い人たちが楽しむレジャーとは縁の無い生活をしていました。

 この孫君には、日本の青年たちから失われてしまった未来への希望、夢、努力といった精神がその頑健な身体にいっぱい詰まっているようでした。

 ある日、孫君から電話がありました。

 「鈴木さん、私、入院したんです」

 彼が入院している横浜市磯子の病院に駆けつけてビックリ。ほんの何日か前まで元気だった彼が、ベッドから起き上がることも食事をとることも出来ません。急性肝炎です。

「非常に危険な状態です。ここ2、3日が山ですね。身内の方を呼んでほしい」

 主治医の言葉です。そこで、孫君に知られないように、ツテを辿って韓国・大田市に住むというお姉さんと連絡をとり、緊急にビザを発行してもらうために病院から在韓日本大使館に診断書をFAX相反するなど大騒ぎとなりました。孫君の韓国舞踊の先生、鄭明子さんも大事な一番弟子の急変にショックを隠せません。

 あんなに元気で、自分の夢を実現させようとがむしゃらに取り組んでいた孫君が、故郷を離れた異国で、家族もいない1人ぽっちのまま、死に瀕しつつあるなんて。人生を一生懸命生きている孫君が、どうしてこんな目に遭うのでしょうか。

 この日本には無目的にプラブラと、ただ生きているだけみたいな若者達が大勢タムロしています。そんな日本の若者たちが10人束になっても適わないほど、孫君の人生は価値のあるものではないか、非常識な考えとは分っていましたが、彼の不運を恨みました。

 韓国から駆けつけて、孫君のあまりの変わりようにベッドわきで泣き崩れるお姉さんに 「僕は心配ないよ。大丈夫だから早く帰ってください。子供たちの世話だってしなくちゃいけないんだから」

 孫君の病状を知った周囲の人たちは「人生の時間が足りなくて、生きることを急いでいたみたいにガムシャラなやつ」と一様にもらしました。

 ところが、病院をはじめ周囲の人たちが殆ど諦めていたというのに、孫君は持って生まれた頑健な体力で、主治医が見捨てたほどの症状から劇的に復活しました。

 毎日、肝臓の異常を表す数値を主治医に電話でお聞きしていた私としても、こんなに嬉しいことはありません。危険ラインにあった数値は、わずか2週間ほどで見る間に正常値に落ち着いたのです。孫君から電話で、好物の「スルメイカを食べたい」と言われたときには、喜んで駆けつけたものです。

 「鈴木さん。入院するとき、自分は死ぬんじゃないかなぁと思っていました。ずいぶん前から身体がだるくて辛かったんです。新聞配達を1日でもいいから休ませて欲しかったんですよ。だけど、身体の調子が悪いからといって、僕が仕事を休めば韓国人全体が悪く思われるかも知れないでしょう。その一念だけで無理をしたのが悪かったんですね」

 この負けず嫌い、ブライドの高さこそ「韓国人魂」というものなんでしょうか。でも、そのせいで彼は危うく命を落としかけたのです。

 孫君のように、韓国人には「ゆっくり」とか「マイペース」といった行動はあまり見受けられず「急げ、急げ、早く、早く」が多いように思われます。韓国社会全体にそのムードがあるようです。

 でも、日本人は忘れているようですが、高度成長期の日本だって「エコノミック・アニマル」と世界中に揶揄されながら、脇目もふらず突進し続けて、今の日本を築き上げてきました。「ゆとり」や「余暇」に目が向いてきたのは、そんなに昔のことではありません。孫君を見ていると、まるで一昔前の日本人を見ているような気持になります。

 孫君は退院して一度国に戻り2週間ほど養生したあと、また、日本での生活を始めました。

 「今度は、自分の身体を過信せず体調にも気を使ってやりなさい。この病気は、神様が休養も大事だと教えてくれたんですよ。焦りは禁物。死んでしまっては、あなたの夢もゼロになってしまうんだから」

 孫君は、高校時代に教わった歴史教育で、日本に対する嫌悪感を抱いたまま「日本語ができると有利」というだけで日本に留学しました。韓国人が日本人を嫌っているように、日本人も韓国人を嫌っているだろうと覚悟してきたのに、現実には多くの日本人との素晴らしい触れ合いがありました。もちろんたまには嫌な目にも遭ったとは思いますが、彼はそういうことは一切言いませんでした。

──韓国人と日本人。お互いの誤解を解くにはどうすればよいか。──

 彼が舞踊に打ち込み始めたのは、日本に来てこんな思いを抱いたからです。「日本人も韓国人も関係ない。経済や政治も関係ない。言葉が通じなくても芸術は理解できる。感動を与えることかできる」

 これが彼の口癖です。いつかどこかで、孫君の舞踊を見る機械があるかも知れません。彼の夢を1人でも多くの人が理解してくれることを祈っています。

★加筆
 退院後しばらくして、やはり体力的に以前と同じというわけには行かず彼は新聞配達を辞めました。アパートは新聞販売店のものでしたので、我が家に来てもらうことになりました。1年ほど私の家から学校に通いまして帰国、現在は大田市で自分の舞踊研究所を持ち、生徒たちを指導しています。舞踊家ではなく、創作舞踊を教える側にまわったのですが、これが孫君の、肝臓に負担をかけず舞踊に携わる方法でした。

■何よりも真の歴史教育を

 日帝時代における韓国の不幸な36年間を経て、韓国民が解放されたのは人類の長い歴史からみれば、ほんのわずか50年前というごく最近の出来事です。それなのに私たち日本人は本当の意味での歴史を知りません。学校でも殆ど教わっていません。

 敗戦後の日本では価値観の180度転換という、突如転がり込んできた民主主義(真の民主主義ではなく戦後民主主義というべき独特のものだった)とやらに酔いしれて、荒れ果てた国土の中から芽吹く雑草のように逞しく、生活向上の御旗を打ち立てて経済復興にのみ力を注いできました。その過程には、日本のおかげで痛手を被ったアジア諸国に目を向ける余裕がありませんでした。

 現人神に大和魂といった精神論が根底から覆され、民族のアイデンティティに誇りを持てなくなった日本人にとって、生活消費財のあふれかえる豊かなアメリカこそが、求め、見習うべき対象となりました。経済至上主義への突入です。

 しかし現在、物質的豊かさを具現した代償として、精神的なゆとり、他者に対する思いやりといった、人としてのあるべき姿を見失ったことに私たち自身が気付いています。しかも循環型社会の構築が求められる中、ゼロ成長、マイナス成長経済のなかで生きていかざるを得ません。本当の意味での成熟社会到来です。使い捨てではなく、不便さをあえて選択しつつ、これに応じて暮らしてゆく。戦後経験した180度転換に次いで、またもや価値観の転換期です。

 繁栄の過程で日本が切り捨ててきたアジア。ユーロ統合に見るように一国だけの繁栄ではなく地域全体の共存を図らねばならない時代となった今、アジア諸国との共存共栄が求められています。しかし、共に生きて行くためには、まず私たち日本人が真実の歴史を学ぶ必要があります。ですから私は、地理的、民族的に最も近い韓国、そして身近に暮らす「見えない隣人」在日韓国社会を1人でも多くの日本人が理解してくれればいいなと願っています。

「なんで日本には韓国人、朝鮮人がたくさん住んでいるの?」

「どうして自分の国に帰らないの?」

「差別が嫌なら日本人になれば?」

 これが日本人素朴な疑問です。

 北朝鮮の核問題で、チマ・チョゴリの女性徒に対する暴力事件が続発していた頃、ある大手企業に勤務する40代の部長いわく「ちょっと聞くけど、あのチマ・チョゴリって、北朝鮮の子供と韓国の子供と、どこで見分けるんだい?」

 立派な会社に勤める社会人の素朴な質問でした。事ほど左様に、日本社会では在日韓国・朝鮮人の真の姿が知られていないのです。

 日本と切っても切れない関係だった韓国。そして在日の人たちに対する知識など、殆どの人が持っていません。私だって、ほんの1年ほど前までは「在日韓国人って何?」だったのですから。

 人に職業を聞かれたとき、在日韓国社会対象の雑誌と答えると、殆どの人たちが「何それ?」といった感じでした。在日韓国朝鮮人とオーバーステイ労働者の区別もつかず、しかも私との間に距離を置こうとする人たちもいました。

 以前所属していたスポーツ新聞社での出来事です。新聞社というの存知のように忙しく、人がバタバタしているのですが、ちょうど私が居たときに、常務が部下を叱り付けました。

「なにやってんだ、このバカ。朝鮮人みたいなことをするな!」

 この常務は60歳過ぎの方でした。

 日比谷線で脱線事故が発生した時、大手クレジット会社の本社ビルで一つの噂が流れました。まだ事故の原因も不明だというのに、1時間もせずしてその噂を全社員が知ることに……。

「朝鮮人が線路に石を置いた」というものです。

 日韓交流がいくら進もうとも、現実はこの程度です。オーバーステイ労働者に対する偏見も含めて、日本社会の意識を改革するためには、法律的に弱い立場におかれたニューカマーではなく、戦前、戦後から日本社会に根を張っているオールドカマーたる在日コリアン社会がもっと積極的に活動してく必要があるようです。

 日本政府はニューカマー排除を目的に、オールドカマーとの対立を煽るような政策を進めていると、私自身は感じているのですが、日本生活の先輩であるオールドカマーこそが、弱い立場の新たな隣人であるニューカマーに代わって声をあげていただきたいなと思っています。

 民団組織などでは地域交流と共に地方参政権獲得運動などに取り組んできましたが、日本人である私が感じたのは、日本の一般社会に対するアピール度の低さです。在日社会は、日本社会、とくにマスコミに批判されることを嫌がっているようでしたが、それというのもマスコミの無知が原因でした。特に在日1世、2世はぶしつけ、無作法な記者の質問に怒り心頭といった感じでした。

 ですから私が携わっていた当時は、よほど大きな発表でもない限り日本のマスコミを呼ぶということはありませんでした。韓国、あるいは在日韓国系のマスコミばかりです。ただ、最近になって民団では記者懇談会を毎月1回開催するようになっています。日本の記者さんと韓国系の記者さんの交流の場となり、また、懇談会ではテーマを決めて講師を呼び、勉強会を行っていますので、これが相互理解に大きな役割を果たしているようです。無知による稚拙な批評というものが減ってきております。

 ともかく、日本の歴史教育不備による無知ゆえに、両者間に隔たりが存在しているのですが、かといって待つ姿勢ではなかなか進みません。民団の記者懇談会のように、日本社会に大きく門戸が開かれた在日社会が実現すれば、次の世代、その次の世代は、自らのアイデンティティに苦悩しなくてすむ時代となるでしょう。

 在日韓国・朝鮮人であることを隠すのではなく、また、日本社会に同化するのでもなく、民族差別、国籍差別といった問題を乗り越え、誰もが本名で生活できる時代はすぐそこまで来ています。もはや私たちは国籍や民族などで区切られ対立した世界ではなく、情報を共有するグローバル社会に生きているのですから。(次回最終回は「それでも私は日本人」)



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