日本の中の韓国(第2回)



日本人至上主義が生んだ三角関係

鈴 木 雅 子



■ 在日コリアンの若者たち


民団組織で働く崔(チェ)さんは在日2世です。30歳(当時)の彼は、ものの考え方、その容貌、動作と全てが日本的な若者でした。

このように言うと「何が日本的なんだろう」と思われるかも知れませんね。極めて近い親戚同士である韓国・朝鮮人と日本人であっても、私自身はかなり違いを感じました。在日韓国人が何人か集えば、誰も韓国語を喋らなくとも雰囲気の違いで日本人ではないなと感じます。彼らが喋ればそのエネルギッシュな覇気がビンビンと響いてきます。動作にしても、万事おとなしげな日本人と違って、感情を体全体でストレートに表現するのが韓国人ですし、割と近い雰囲気を持つのは関西人だと思われます。

全くの日本人に見える崔さんは、かといって日本人になりきっているわけではありません。性格的には非常に温厚で地味な感じですが、在日韓国人としての誇りを胸に抱いていました。彼は、1世によく見られるパターン「韓国は正義、日本は悪」という妄信的な思い込みではなく、韓国の良い部分悪い部分、日本の良い部分悪い部分を冷静に判断していました。

年末も近づいたある日、彼に音頭を取ってもらって在日の若い世代による座談会を行いました。民団系、総連系含めて7〜8人集まっていただいたでしょうか。皆さん最初は緊張して固くなっていましたが、次第に一同から率直な意見が続出、在日の若い世代の本音が聞き出せた良い企画となりました。

韓国の大学に留学した具さんは、大手韓国企業の日本支社で働いています。

「私の家はずっと本名を使用していました。小さな時から『韓国人の誇りを忘れるな』と両親に言われ続けて育ったのです。祖国に対する憧れと、韓国人に生まれた誇りがありましたから、当然のように韓国へ留学しました。でも、留学してはじめて『私は韓国人ではない』と思い知らされたのです。

 在日に対して、韓国人の3割は拒絶反応、つまり無視します。『言葉も満足に喋れないくせに』と攻撃的になる人が4割、反対に言い寄ってくるタイプの人が3割。このような割合でした。その中で『具が何国人でも構わない、あんたは私の友達』と言ってくれた人が、たった1人だけいました。

 ただ、時が経つにつれてキョッポ(在日コリアン)として冷たい目で眺めていた人たちも、『具は別』と言うようになってくれましたが、祖国に居る間、私は異質な文化、異質な社会に放り込まれたという気持を拭えませんでした。

私の、これまでの熱い想い、小さな時から韓国人として育んできた気持は祖国留学で裏切られました。長い年月、私が祖国を想い続けてきた気持ちをどうしてくれる、と親を恨んだこともありました。

結局私たちは韓国人でも日本人でもない。それならば私たちって一体何なんでしょう」

総連系の丁さんは大手日本企業で働く30代の男性です。

「日本の方が誤解していることがあります。在日朝鮮人とは、祖国が朝鮮だということではないんです。自分の出身が韓国側であっても朝鮮総連に所属する人も居ますし、出身地が北朝鮮側であっても民団組織に所属する人もいるのです。

南北分断によって在日コリアン社会に住む人は、どちらかを選ぶ立場に置かれました。兄弟で兄は北朝鮮、弟は韓国という家庭もあったほどですから、ひずみが多方面で発生したのです」

これには目からウロコでした。私は全く単純に北朝鮮出身者イコール朝鮮総連、韓国出身者イコール民団と思い込んでいたのですから。東西冷戦構造の最前線として分裂を余儀なくされた激動の朝鮮半島。その歴史すら知らないのが私たち日本人です。

 この座談会で、出席者一同が口を揃えたのが「差別問題」です。すでに私たち世代の日本人には、韓国人・朝鮮人を差別する意識すらないのではと思っていましたが、日本社会には日本人が予想する以上の差別が残っていると指摘され、ショックを受けました。

例えば在日の方がアパートなりマンションを借りる場合、家主さんに断られるケースが非常に多いのです。在日韓国・朝鮮人の歴史的意味も知らず、外国人お断りとシャットアウトするのが日本社会なのです。就職、結婚にしても同様です。

この座談会に出席された山脇さんは、大学で外国人労働者問題を研究されています。彼は「アメリカ留学時代、黒人やアジア人を差別しているアメリカの状況を肌で感じましたが、そのアメリカ人に『日本が在日を差別しているのは何だ』と指摘されてはじめて、日本の中の在日社会について知らされました」と告白しました。

座談会を設定してくれた崔さんは次のように語りました。

「在日の一番落ち着くところは在日なんですよ。在日は今後、日本住民として社会的に貢献し、そしてまた、日本社会からも定住外国人として認めてもらわなければなりません。

在日の9割が日本人と結婚している状況ですから、4、5世は日本籍取得者が多くなるはずです。韓国・朝鮮籍の在日は確実に減少していくでしょうが、日本国籍を取得した人であってもコリアン・ジャパニーズとして自分たちのルーツを忘れないでいて欲しい。孫、ひ孫に伝えていかなくてはなりません。

古来、渡来した人、また過去に朝鮮半島から連れて来られた人たちがたくさんいます。今では日本人ですが、そのルーツを大切にしている人は多いのです。

もはや自らのアイデンティティを国籍に頼れない時代です。在日コリアンの歴史的経緯を踏まえて、外国籍を保持したまま日本に定住する在日の市民権を認める必要があるのです。在日側だけでなく日本側にも大きな変革が求められているのではないでしょうか」

崔さんのように、在日として生まれついた自分をあるがままに受け入れ、真摯に努力を重ねている若者達がいる限り、どれほど減少しようとも在日韓国社会の展望は拓けてくると私は確信しています。なぜならば在日とは、日本と韓国に橋を架けるべき重要な立場にいるからです。ただ、そのためにはクリアしなければならない問題があります。

真っ先にあげられるのが言語です。日本と韓国をつなぐ掛け橋、それが在日の役割としても言葉が通じないようでは橋の架けようがありません。

と、このようにエラそうなことを言いますが、座談会の口切りに喋った私の言葉「在日がイヤなら帰化すれば?」。これは普通の日本人が平気で口にする言葉ですが、座談会で彼らの深い心情、葛藤を知った後では「何と失礼な言葉を口にしたものか」と自分を羞じました。

この座談会で私は、在日韓国・朝鮮人の若者達の、ナマの気持を知りました。日本人の1人として、たとえ無力でも私に出来ることはないかと密かに思ったのは、このような人と人との触れ合いがあってこそでした。

ともあれ、10月のマダンで韓国社会の心に触れてから、日本人としての視点で物事を捉えていた私が、急速に在日社会に傾斜していくのは自明の理だったのかも知れません。経済のみに突っ走ってきた日本がもはや失ってしまった民族の心ともいうべきアイデンティティに苦悩する彼らを、反対に羨む気持があったのでしょうか。私にはわかりません。

■ はじめてのソウル

大晦日の朝、成田からソウル行きの飛行機に乗りました。入社以来わずか半年余りで私に大きな影響を及ぼした在日韓国社会。彼らの祖国を見ずして、私はこれ以上何も言えません。

もともとアジアが大好きで香港、台湾、タイなどあちこちに行きましたが、韓国だけは避けていました。理由は単純です。マスコミを通して聞こえてくる韓国人の日本人嫌いでした。

「日本人だと分ったら怒鳴れるんじゃないだろうか」

「石をぶつけられるんじゃないだろうか」

今思えばバカみたいに単細胞でした。しかし、在日社会に携わるまでは本気でこのように思っていたのです。

「台湾をはじめとする各地で、かつての日本は占領行為を行いそれらの国に迷惑をかけてきた。決して韓国だけではない。それなのに、韓国だけが未だに日本を目の敵にしている。恨みをいつまでも持ち続ける執念深い国民性だから、現在も日本に対して反感を持っているのだろう」

これが、私の抱き続けていた韓国観でした。ゆえに、かつての私なら韓国に行くなんて「とんでもない」とビビっていたでしょう。でも、在日社会を真から理解するには現実の韓国を見るしかありません。短いソウル滞在でしたが、一番驚いたことを一つだけ述べておきましょう。

ソウルという大都会だけで全てを判断することは危険です。しかし、その中で感じたのは「韓国人は日本人以上に在日コリアンを嫌っているのではないか」という疑問です。

お正月のソウルは、車の数も少なく、ピンと張り詰めた澄み切った空気が肌に新鮮です。家族連れが景福宮などを散策しています。私もその中に混じり、言葉は分らないながらもシーソーゲームに興じる人たちをのんびりと見物させていただきました。

お昼をとろうと、ソウルの原宿『明洞』(ミョンドン)街をふらふら歩き、小さな食堂に入りました。一言も喋らないうのに日本人だと分るのか、片言の日本語で丁寧に注文を聞きにきてくれます。食堂には何組かの先客が入っていました。

「アガシ! アガシ!」

大声で店の人を呼びつけ、命令口調で注文している中年男性のグループがいます。厨房の方で店の人たちがイヤな顔をしているのが私には見えました。言葉は分らなくとも横柄な口調はどこの国でも同じだなと思っていると、そのグループ、自分たちの会話は日本語なのです。在日の人たちでした。

アルコールが入りすぎたのであんなに威張っているんだな、このときはそう思いました。しかし、短い滞在中、ホテルのバー、街中の食堂、喫茶店とあらゆる場所で在日の人たちを見かけました。かなりの人たちが正月を祖国で過ごしているのです。

私は、彼らの横柄な口調が気になって仕方ありませんでした。男性も女性もソウルの人たちに比べて服装、装飾品が派手ですし、札ビラを切るように派手な使い方をしています。それがソウルの人たちの神経を逆撫でしているようで、彼らに対して嫌な顔をしているお店の人が、私のような日本人には非常に親切にしてくれます。

ソウルに住む一般の人たちにとって、在日とは、日本で言うところの「成金」的な存在に映っているような気がしました。

「日本人が韓国語で挨拶すると、ヘタでも上手だと褒めてくれるが、キョッポ(在日)だと『韓国人のくせにまともな韓国語も喋れないのか』とけなされる」とは、韓国に留学した経験を持つ方々の一致した意見です。何となく、前述の座談会で発言した具さんの、心情の一端を理解できた気がしました。

在日韓国人とは、日本においては外国人扱いされ、韓国においてもよそ者扱いされているとしたら悲しいことです。

 過去にさまざまな経緯のある日韓両国ですが、同等の立場で共存共栄できるアジア圏を築くためには在日韓国人の力が重要だと私は認識しております。しかし、ソウルで見聞きした現実は、越えなければならない溝が存在することを教えてくれました。

過去に囚われず未来を見据えた日韓関係を構築するには「韓国人と日本人」だけではなく、「韓国人と在日韓国人」「在日韓国人と日本人」という複雑な三角関係をまずクリアする必要があるようです。

余談ですが私が子供の頃「ブラジルのおじさん」を持つ同級生がおりました。「ブラジルのおじさん」は、日本に帰ってくる時、ピカピカした絹の背広を着ています。大きなトランクには私たち日本の子供が目にしたことも口にしたこともない様々なお土産がいっぱい詰まっていました。私は「ブラジルのおじさんむがいる同級生が羨ましくて仕方がありませんでした。当時の日本はブラジルよりもずっと貧しい国だったのです。

現在、日本とブラジルは大きく様変わりしています。ブラジルに移民した日本人たちの子孫が、円の力と職を求めて大勢出稼ぎ帰国しています。

このような現実を見ますと、日韓在日という三角関係の一辺、韓国人と在日の間にある微妙な感情の行き違いは、韓国が日本と同等の力をつけつつある今、もしかしたら近い将来自然に解決していくのかも知れません。そうなれば、日本人と在日韓国人の関係もずっと改善されていくでしょうし、また、歴史教育の不備による相互不理解といった問題を抱える韓国と日本だって同様でしょう。

実を言いますと、私はその兆候を垣間見ました。広島で開催されたアジア大会でのことです。韓国からたくさんの選手がやってくるというので、民団では応援団を組織しスタンドから熱狂的な声援を送りました。特に目を引いたのが在日3世の若者たちです。カネや太鼓を用意し、喉を嗄らしてまでの大声援は、会場で一際目立ったようです。

韓国選手団に同行して本国から取材に訪れたある記者などは「在日韓国人たちがあんなに派手な応援をすれば、日本人が気を悪くするではないか。彼らが日本社会で共生するのは大変だろう」と本国に記事を送りました。でも、これは心配するに及びません。

日本の高校野球を思い浮かべてください。普通、人が最初に応援するのは故郷のチームではないでしょうか。もし故郷のチームが負けたら、今度は住んでいる地域のチームを応援するでしょう。在日3世の若者たちも、これと同じ感覚なのです。

それよりも、万事に関心の薄い世代が本国選手を一生懸命応援した事実は、韓国人と在日韓国人の間に横たわる問題を解決する糸口になるかも知れません。それに、韓国と日本が将来を見据えて発展的な関係を構築するには、在日韓国人を抜きにしては考えられません。どちらにしろ、在日が重要な位置にいることに変わりはありません。

■ 独立運動の闘士、李玉童氏に会う

ソウルを離れる日の朝、ホテルに駆けつけて下さったのが李玉童氏です。社団法人韓国文化院総合会会長であり、光復会副会長と全州李氏大同宗約院副理事長を務めておられ、国会議員もされた方です。

「戦争で戦った勇者を祀ってある国立の墓地があるんですよ。日本で言う靖国神社ですね。お詣りしたり、お世話するのが光復会なんです。大統領や閣僚たちと一緒にお詣りをすませてきたところです」

張りのある声で開口一番。70歳をとうに過ぎているとは思えないほど若々しくて元気でいらっしゃいました。李氏は日本の中央大学を卒業しており、同大学韓国同窓会の会長も務めておられます。

「表から入って裏から出たようなもんです。戦争のお陰で勉強なんか殆ど出来なかったですから。おまけに朝鮮の独立運動があったでしょう。私もこの独立運動に加わりまして、中野拘置所に入れられました。ハッハッハ」

 李氏だけでなく、当時多くの同胞たちが刑務所や拘置所に放り込まれ、中には10年、20年も刑務所暮らしを余儀なくされた人もいたそうです。

「私らみたいなのを日本人は不逞鮮人と呼んどったんです」と、李氏は笑いました。

李氏の言う独立運動について簡単に説明しておきます。

1910年8月、日本が朝鮮を併合しました。36年間に亘る植民地時代の始まりです。朝鮮人の政治活動を禁止し、憲兵が警察権を握り、ハングルの新聞雑誌は廃刊。独立運動を続ける民族運動家は次々と逮捕され、拷問にかけられました。土地を没収され田畑を失った農民たちは木の皮や草で口をしのぎ、流民として故郷を追い払われたのです。

1919年1月23日。事あるごと日本に逆らい軟禁状態だった高宗王が急死。民衆の間では日本人による毒殺の噂が広まり、これを機に日本統治に対する不満が一気に高まってゆきます。

同年2月8日。東京の朝鮮基督教青年会館で600余名の留学生が《独立宣言書》を読み上げ、全員逮捕される事件が発生します。東京の留学生が火をつけたこの独立運動は朝鮮半島全土に広まり、3月1日にはソウルのパコダ公園に各地から民衆が集い、太極旗のもとで《独立宣言書》を朗読、同時刻、全国津々浦々で「大韓民国独立万歳」の声が響き渡ったのです。

しかし、東京から始まり本土で火のついた独立運動は失敗しました。日本軍の弾圧により死者7509人、負傷者1万5961人、逮捕者4万6948人を出す結果となりました。この事件以後、日本は国民学校からの日本語教育、朝鮮語禁止、神社参拝強要、創氏改名など、一つの民族を消滅せしめるほどに統治を強化してゆきます。

独立運動は失敗に終わったものの、これまで日本に同調していた列強諸国の見方を変えたことは確かでした。しかも独立の火は決して消えることなく、上海で「大韓民国臨時政府」が樹立、日本の敗戦まで世界的な規模で独立運動が続けられることになりました。

この唄は植民地時代の朝鮮民謡の一つです。

── 口の利ける野郎は監獄に、野良に出る奴は共同墓地に、餓鬼の一匹も生める女っちょは色街に、もっこの担げる若え野郎は日本に、こんで何もかも、すっからかんよ。──

私の目の前に座っているのは、学生時代、独立運動に取り組んだ闘士の1人でした。

そんな李氏が、当時の山花委員長をはじめとする社会党の議員一行がはじめて韓国を訪問した際のエピソードを語ってくれました。ちなみに山花委員長は中央大学を卒業しています。

「彼らが韓国に来るという時、中央大学同窓会で紛糾しましてね。『今まで私らの頭上を飛び越えて北(北朝鮮)にばっかり行っとった人間を、何で歓迎する必要があるか』と。それで私こう言いました。同じ学び舎で学んだ後輩が、遅ればせながらやって来る。途中道を誤ったのも党の方針など色々な事情があろう。儒教精神からも歓迎しようじゃないか』

あとで分ったのですが山花さんは韓国に来るときビクビクものだったそうです。怒鳴られて石でもぶつけられるんじゃないか、空港から追い返されるんじゃないかと。ところが、空港で待っていたのは日本中央大学韓国同窓会の大きな歓迎旗でした。

現在、中央大学は八王子の多摩キャンパスに移転していますが、校門を入ってすぐ右の方に、かつての正門『白門』が移されています。隣には桜が植えられ、その中で一際目立つのが『白門無窮之碑』と書かれた石碑です。建立したのは李氏をはじめとする韓国同窓生たち。

かつて中央大学は「赤門」の東大に、「白門」の中大と称されていたと言います。白色は韓民族にとって全ての基本となる神聖な色です。中央大学が白門と呼ばれていたのも何かの縁かも知れません。

石碑の周囲には韓国の国花「無困花」(ムグンファ)が植えられ、桜の散ったあと、石碑を秋まで彩ってくれます。

石碑は人間の3倍近い高さで、1番上では2頭の竜が舌を出して真ん中の珠を奪い取ろうとしています。

「珠はね、真理なんですよ。前進しようという気持を表して、一生懸命がんばれと、そういう気持を込めたんです」

このように語る李氏の目が潤んで見えたのは、私の錯覚ではありませんでした。

李氏は本国で多くの役職に就かれ、忙しい毎日を過ごされているにもかかわらず、自分よりずっと若い日本人のために、わざわざ時間を割いて駆けつけて下さるような方でした。過去の苦難の歴史を背負いながらも、両国の架け橋にならんと奮闘を続けておられる方が、目の前にいました。

私の中では、石碑の上で対峙し真理を追求している2頭の竜が、韓国と日本に思えてなりませんでした。対立ではなく、両国が協力して真理を追究しろと訴えているのではないでしょうか。 (次回は留学生孫くんとの出会い)


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