在日コリアン 日本の中の韓国(第1回)



日本人至上主義が生んだ三角関係

鈴 木 雅 子



■ 在日韓国人社会へ


 「知り合いの雑誌社で編集できる人を探しているんだ。君、やってみないか?」

  古くからの知り合いであり、また公私共にお世話になっている国際時代社の山上社長から電話があったのは平成5年6月でした。当時私は、雑誌などで原稿を書く傍ら、駅やコンビニなどで販売しているスポーツ新聞社に契約で勤務していました。その雑誌社についてお伺いすると、

 「フリーライフと言ってね、銀行なんかにも置いてある普通の雑誌だよ。君は経済記事が向いているし、いいと思うだけど」

  内心、ずいぶんダサい名前の雑誌だなとは思いましたけど、好奇心半分で早速フリーライフ社を訪ねることに。

 「ところで、社長は韓国の人なんだが、かまわないだろう?」

  山上社長が電話を切る前にいったこの一言の意味が分ったのは入社後のことです。フリーライフ社は渋谷駅前のビルに本社があり、お会いした社長の名前は「大場」と言いました。

 「君、明日から来てくれよ」

  世間一般の政治経済や社会風潮などの雑談をしたあと、当然のように言われて慌てたものの、大場社長の博識ぶりと、新聞社とは違って小さな会社の家庭的名雰囲気に即断即決。仕事の内容も待遇も、何ら話し合うこともせず、ただ社長との雑談だけで進路を決めたのは一体何だったのか、我ながらその辺のところが不可思議な気持でしたが、とにかく、慌しく新聞社にとって返し事情を説明。週に2回以上と夜間2〜3時間だけスポーツ新聞社での変則勤務を条件に、めでたく(?)解放してもらい、私のフリーライフ入社が決まりました。

  ところで、私は「ごく普通の日本人」です。鹿児島で生まれ、子供時代、学生時代を大阪で過ごしました。大阪という土地柄、同級生の中に在日韓国・朝鮮人が居たとは思いますが、全く記憶にはありません。もしかしたら、仲良く遊んだ身近な友達の1人だったかもしれませんが、日本名(通名)を使用している在日の方々が殆どでしたから、私には分るはずもありません。

  ここで「ごく普通の日本人」と強調したのは、韓国・朝鮮についての知識が皆無という意味があります。一般的に日本人が朝鮮半島について思い浮かべるのは「日本が占領した国」「強制連行で日本に暮らすことを余儀なくされた在日の人たち」「慰安婦問題」「南北分断国家」といったところでしょうか。

  日本に暮らす韓国、朝鮮の人が日本の名前を使用していることについても「無理に連れて来られたけれど、今は日本人になっている」程度の知識しかありませんでした。それどころか、韓国と北朝鮮の明確な区別も、平壌がどこでソウルがどこかも知りませんでした。大場社長の本名が「李」であることを知ったのも、だいぶ後のことです。

  名前だけでなく全てに関して私が無知だったのは確かですが、ワールドカップ共催で盛り上がりをみせる今日と違って、一般の日本人にとっての韓国は海外旅行の対象というくぐらいでしかなく、ほんの数年前までは興味ゼロと言っても言い過ぎではありません。

  韓国が日本に向けている視線の十分の一どころか、百分の一も、日本人は韓国を見ておらず、私もまたその1人でした。

  韓国・北朝鮮についての知識だけでなく興味すら無い人間が、在日韓国社会を対象とした雑誌の編集に携わるとは、今思えば「無責任の極み」と言うしかありません。

 「フリーライフ」という雑誌は、日本では業界誌に過ぎません。しかし、全国約50万(日本籍取得者および朝鮮籍者を含めると約百万人)の在日韓国社会においては立派な全国誌であり、もちろん日本語で編集されています。

  一本の電話をきっかけに、何も考えずに飛び込んだ在日韓国社会。日本人であるが故に右往左往することが多かったのも事実ですが、また、日本人であるが故に見えてきたものがありました。幼児が言葉を一つ一つ覚えるように知識を吸収し、いろんな方と出会うことになったフリーライフ時代を契機に、私の生き方、考え方が百八十度変わったのは事実です。

  自分のことしか考えず、自分が日本人であることすら意識していなかった私に、国とは何か、人とは何か、生きる意味、生かされる意味について考えさせてくれたのは、在日韓国社会との出会いでした。

■ 初めての取材

  入社して1週間目。雑誌の内容もまだ掴めない、というか訳が分らず頭は殆ど混乱状態の極みのままで、社長とカメラマンに同行して神奈川県の民団神奈川県地方本部に出かけることになりました。このとき実は「民団」とは何かさえ知りませんでしたが…。

 「北朝鮮は朝鮮総連、韓国は民団って言うんですよ」

  カメラマンの方が教えてくれましたが、何のことかさっぱり分りません。せいぜい、日本に住む韓国人や朝鮮人の集まりとしか理解できませんでした。

  つまり、この世に生れ落ちた瞬間から日本国籍が当然のごとくついてまわる日本人の一員である私には、外国人登録だの永住権だのに頭を巡らすことも出来なかったのです。

  目指す民団本部の建物には「在日本大韓民国居留民団」と大きな看板がかかっています。内心とても緊張しておりましたが、おくびにも出さず社長に続いて中に入りました。

 「こんにちわ」

 「アンニョンハシムニカ」

  いっせいに言葉が返って来ました。男女の職員5人ほどが事務机の前で仕事をしています。来客用のソファに座り、インタビュー相手である団長を待っている間に電話がかかりますと、受話器を取った女性が流暢な韓国語で話しています。

 「ああ、ここは韓国なんだ!」

  日本の中の韓国。この建物にいる人たちはみんな韓国人だと思うと、妙に居心地悪く、自分が邪魔者みたいな気分になりました。

  団長が到着しました。すると、普段日本語しか喋らないわが社の大場社長が、団長と肩を叩きあいながら韓国語で挨拶、親しげな素振りと大きな声で話が弾んでいます。その横で固まった?ままの私は、大場社長の横でテープを用意しノートを広げ本番を待っていました。すると、団長が突然私の方を向き、大場社長に何事か喋っています。

 「……イルヴォン?……」

  会話の中で、イルヴォンという単語だけが妙に耳に残りました。その時は意味が分りませんでしたが、あとでこの言葉の意味を社長に聞くと「どうでもいいことだよ」と口を濁して教えてくれませんでしたので、多分「何で日本人を使っているんだ」といったニュアンスだろうと勝手に想像したものです。

  韓国語による一通りの挨拶や近況報告が終わると取材開始です。ここから会話は日本語に変わりました。そうでなければ私が来た意味がありません。フリーライフでは、在日韓国社会で功なり名を遂げた方の生き方といったものをインタビュー形式で紹介するコーナーがあります。社長のインタビューに同行し、会話をまとめ記事に仕上げていくのが私の仕事です。

  今では何人ものインタビューを経験し、在日一世の方々の生きてきた軌跡を聞かせていただいたお蔭で、在日の若い世代も知らない戦後の状況、苦労などナマの歴史を知ることが出来ました。1人ひとりが背負ってきた荷物の重さに胸打たれることも多く、また逆境の中で必死の努力を重ねて今の地位を掴み取った方々の生き様に感銘したことも多々あります。

  しかしインタビューに登場する方は、成功者の部類に入るたちであり、在日社会全体の姿ではありません。閉鎖的な日本社会に呑み込まれ、あるいは這い上がろうと、未だにもがき続けている在日韓国・朝鮮人の人たちが、この何倍、何十倍も存在するという事実が私の心に重くのしかかるのです。今の、平和な時代では想像もつかない体験を重ねてきた人の何と多いことでしょう。

  とにかく、このインタビュー取材では多くのことを教えていただき、在日社会を理解する上でも大変価値のあるものでした。

  団長の取材が終わり、帰りの電車の中で大場社長に尋ねました。

 「団長とはどれぐらいのお付き合いなんですか?」

 「会ったのははじめてだよ。なかなか良く出来た人物だ」

  びっくりしました。普通、日本人ですと、初対面の人同士、大声で会えた喜びを語り合いながら肩を叩き合ったり家族や仕事のプライバシーに踏み込んで話したり、あるいは別れる時に互いの両手を固く握り締め握手するなんてことは、まずありません。

──日本人と比べて、何とおおらかだろう──、そう思うと同時に──自分にはついて行けないなぁ──という違和感を強く感じてしまいました。

  さて、このようなインタビューだけでなく在日韓国社会の青年会組織、商工会などの総会も私の取材対象です。

  ある組織の全国大会のために、東京・麻布の韓国会館に初めて行くことになりました。大通りに面した立派なピルです。ちょうど韓国では大田エキスポが開催されており、ビルの壁面には大きな垂れ幕が下がっていました。ハングル文字で書かれた垂れ幕を見た途端、私の緊張が高まります。

  中に入りエレベーターで大ホールへ。所狭しと並べられた椅子に大勢の人たちが座っています。韓国系マスコミの人たちも取材に来ています。ホール正面には韓国の国旗が掲げられ、挨拶も韓国語で始まりました。何を言っているのか私にはさっぱりわからず、如何にも分ったような顔をして記者席に座っているしかありません。幸いなことに肝心な話となると日本語を使ってくれるので助かります。ただ、後で考えますと「なぜ日本語なのか」という点に、在日社会の切実な問題が隠されていましたが……。

──この大勢の人たちはみんな韓国人なんだ。日本人は私1人だけ──

  そう思うと何だか変な気分です。自分が部外者、つまり邪魔者との意識が大きくもたげて来ました。

  もともと私の頭の中には「日本は韓国を植民地にして、しかも長年差別してきた。だから韓国人は日本人を嫌っている」との思い込みがありました。ですから、相手と話すときも妙に遠慮して、言葉を慎重に選んだり、日本人、韓国人という人種を意識しすぎたあまり、在日韓国人に対してどのような対応をすればよいのか分らず、厚い鎧を身に着けたように身構えてしまいます。

  突然、在日韓国社会に紛れ込んできた異質な日本人である自分を、相手はどう思っているだろうか。この社会に来て半年余りはそれだけが気にかかり、素直な言葉やありのままの気持で喋れない日々が続きました。

  今思えば私のほうだけが自意識過剰だっただけですが、普通の日本人なら大同小異似たような心境になるのではないでしょうか。

■ 民族の祭典 10月のマダン

  秋空の下、埼玉県高麗神社で10月のマダンが開催されました。当日、人手が足りず私がカメラを持って取材することになり、友人達を誘って出かけることにしました。私の友人は日本人ですから興味津々でついて来ましたが、何を隠そう、私はといえば、在日韓国人の老若男女が数千人も集まるお祭りを1人で取材する勇気が無くて、珍しいお祭りをダシに友達を誘い出したのです。

  やはり、というか案の定、開会の挨拶も総て韓国語です。高麗神社の境内に各地から大勢の在日韓国人が集い、あちらこちらでゴザを敷き家族総出で飲んだり食べたりと大騒ぎ。

  境内の真ん中で芸能が始まりました。韓国からやってきた芸術団によるサムルノリ(農楽)です。友人達も私も、初めて触れる韓国の音と舞踊でした。民族衣装をつけた男性たちが軽快なリズムに合わせて太鼓を叩きながら、ステップも軽やかにクルクルと円を描きながら踊ります。

  これには、すっかりまいってしまいました。写真で見るだけでは分らない生きた音と動き。人に感動を与える芸術には国境がないことをつくづくと思い知らされました。

  アジア、それも古くから歴史的に因縁浅からぬ両国。私たちが、西洋のオペラやバレエなどから受けるイメージとは段違いな、腹の底からの感動、血が逆流するかのような強烈なショックを、私は受けてしまいました。

  それまでの私はといえば、自分がタッチしている在日韓国社会に対して、距離を置いて接していました。靴の上から痒いところをかく程度の、底の浅い取材。きれいごとを並べ立てただけの中身の無い記事。

  初めて出会った韓国の民俗芸能がこの距離を埋め、日本人として私が出来ることは何か、常に考えさせてくれるきっかけとなったのですから、まさに百編の説教より1つの何とやらです。

  境内の中央では、二世、三世の青年グループや四世の子供たちと、いずれ劣らぬ演奏や踊りに参加者たちは惜しみない拍手を送っています。農楽のリズムに、マッコリ(どぶろく)を飲んでいたお年寄りが1人、また1人と中央に踊り出て優雅に舞い始めると、周囲を囲む見物客たちは音楽に合わせて手拍子を打ちながら掛け声をかけます。いつのまにか私も一生懸命手を叩いていました。

  ほろ酔い気分の一世、二世たちだけでなく、若い人たちも広場のあちこちで韓国伝統のゲームに興じたり、各婦人会が出店している自慢の料理を味わったりと、日ごろのウサを今日一日だけは忘れ、みんなが童心に戻ってお祭りを精一杯楽しんでいました。

  仮面をつけてのユーモラスな踊り、首が折れんばかりにダイナミックに舞う様に感銘したのは私だけではありません。友人達も同様でした。

  埼玉県高麗神社が、朝鮮半島と大変ゆかりの深い神社であると知ったのもその時です。境内の片隅に、朝鮮半島から一族郎党を引き連れて高麗の地から移り住んだ王族について今も記されています。代々の神主はその子孫であり、周囲に住む多くの人たち、また各地に散らばっていった人たちももちろん、その血を引いていると言います。

  高麗神社だけではありません。日本の各地に、かつて遠い昔、朝鮮半島からやってきた人々の足跡、史跡が数多く残っています。いわば我々日本人の体には韓国・朝鮮人と同じ先祖の血が脈々と流れているのです。もしかしたら私は、遠い昔、海を越えてやってきた渡来人の末裔かも知れません。そして、あなたも……。(次回は在日コリアンの若者達など)


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