差別を考える


差別を考える




大人へのメッセージ
人は集団の中でしか生きられない。なぜならば自分を自分で判断できないからだ。自分がどのような人間であるか、性格や醜美も含めて、自分と人を比較して相手が自分より上か下かを常に計りながら生きている。

集団で生きる生物は所属する場所(アイデンティティ)を求める。人によってはそれが国家、民族、人種、生誕地、言語、宗教あるいは会社など様々で、しかも最近は個人としてのアイデンティティ希求に行き着いているようだが、同一環境にいる集団が他の集団とまみえたとき、差異を異質と捉えてこれを排除、つまり「差別」する。

このように差別とは、人間の本能と密接に結びついたものである。そのため、例え不条理、無意味、根拠の無いものであっても集団社会がある限り差別は無くならない。かといってこれを放置すれば、グローバル化が進展する中でのアンチグローバリズムの動きと結びつき、社会不安や治安悪化、ひいては地域紛争や民族紛争を引き起こす。

なぜ異質を差別するのか。我々が無知だからである。差別は無知から生まれている。だが、やられた方は「知らなかったから差別した」では済まされないほど人生に重い傷を負ってしまう。ゆえに「無知は罪」である。知ろうともしない傲慢さが、摩擦を引き起こし、人の心を傷つける。

同和差別、韓国人・朝鮮人差別、ニューカマー労働者問題、イジメ、虐待、女性問題など等、全ての根っこは同じである。集団の中の小さなグループ「マイノリティ」排斥をもたらすものは我々の「無知」だと自覚することが、1人ひとりのアイデンティティ確立に繋がるのではなかろうか。

ここで連載紹介させていただくのは、高麗書林刊行「の大人へのメッセージ」の中に紹介された「日本の中の韓国」(鈴木雅子)を手直ししたものである。日本人至上主義というゆがんだ価値観から生まれた様々な差別問題を考えていただく上で、また在日コリアンを知る入門書としても最適である。
(※ 本コーナーは東アジア交流協会の協力を得て紹介しております)

●日本の中の韓国(1)在日韓国社会へ
●日本の中の韓国(2)在日コリアンの若者たち
●日本の中の韓国(3)留学生、孫君との出会い
●日本の中の韓国(4)それでも私は日本人
●シェルターから見たアジア女性の人身売買
●21世紀の民族教育とは


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