崇仁地区に対する感想 |
ここで紹介する文章は、当HPを見て崇仁地区を訪れた方が、ウェブ上に残した文章です。この方のHPは、残念ながらサイト自体が閉鎖されており連絡出来ない状態です。第三者の視点、多分若い方だと思いますが、地区を見て感じたことが素直に綴られています。転載禁止事項などがありませんでしたので、紹介させていただきました。 ただ、地区での出来事(子供達の反応など)と言いますか、誰でも自分の暮らす場所に対してカメラ片手の興味本位な視線を向けられると良い気持はしないものです。この方の場合、意識していないとは思いますものの、上から下への視点を感じます。下に扱われた側は、たとえ相手が隠したつもりでも、こういう感情にはとても敏感です。 でも、せっかく地区を歩かれたのですから、次回はぜひ、崇仁協議会に声をかけていただき、実際に地区の方々と触れ合ってみていただきたいなと思います。この方のサイト閉鎖には文章から分るように理由があるようですが、それなりにご自分の観点で取り組んでおられたようで、残念に思います。以下は、その文章です。 閉鎖のお知らせ この度は当サイトにお越しくださいましてまことにありがとうございます。 さて、まことに勝手ながら当サイト「2001年夏 被差別部落を歩く」は、2001年12月24日をもって 閉鎖させていただく事に致しました。応援や励ましのメールを送っていただいた方には 大変申し訳なく思うと共に、深く感謝しております。 サイトの内容についてはここでは多くを語りません 閉鎖の理由については、推して知るべしです。 皆様のニーズに答えつつ、社会的倫理を逸脱しないよう 神経を尖らせて書いたつもりです。 この企画に協力していただいた 門外漢の私に対して、適切な助言をしていただいた 僕の知らないところで勝手にリンクを貼って喧伝していただいた スパムメールを日々しつこく送っていただいた 全ての方々に厚く御礼を申し上げます。 また皆様に御目見えできる日を願いつつ ひとまず、キーボードをおかせていただきます。 「京都は北朝鮮である。」 つまりそれは、観光客向けにこぎれいに取り繕えられた場所と、他方、まるで終戦直後のような荒れ果てた状態でほったらかされ、陰部として「上から」その存在を隠されている、2つの顔があるという点である。 僕はその存在を「崇仁協議会」という部落解放団体のホームページで知って、その中の写真の一つに今回の部落探訪の旅への強いインセンティブを得たというのは、前に書いたとおりである。 とはいってもこの崇仁協議会の主張を頭から信じてしまうほど僕は左の人間じゃない。やはり彼らのホームページには、社会への反発意識と、自分たちが絶対的な弱者であるというような被害者意識が剥き出しになっていて、はっきりいって物足りなさを感じた。僕はひねくれ者なので、なんでもすぐ疑ってかかる癖がある。被差別部落の問題でも例外ではない。なんでも自分の目でみて判断しないと気がすまないのである。 京都駅に着いたのは午後5時半ごろだった。着くのがこんなに遅れたのは、その前に大阪をぶらついて、いろいろと時間をくってしまったからである。 京都駅を降り、鴨川の方向へ、だいたい200メートルくらい東へ行くと、そこはもう市営住宅街だった。まさか天下の京都駅からそんなに近いところにあるなんて思ってもみなかったんで、僕は非常に面食らった。しかも今まで見たどの市営住宅よりもその佇まいは暗く、疲れきっていて、さながら新手の心霊スポットのように僕の目にはうつった。 やがて、鴨川が見えた。鴨川の土手は思ったとおり、とてもきれいに舗装されていた。やはり、ゼロ番地にまで行ってみる必要があるな、そこにいけば本当の京都があると感じた。 ゼロ番地の方向へ、まっすぐ南へ進んでいくと、華やかな京都のイメージとはおよそ想像もつかない裏寂れた町並みが次々と僕の目に飛び込んできた。そんな町の中を歩いていると、夕暮れ時のせいもあってか、僕の気分は急速にブルーになってゆきふと、死にたくなった。 しばらく歩き、ゼロ番地の辺りまでたどり着いた。そこで、再び鴨川沿いまで出てみると、川沿いにはまるで、廃墟ともただのゴミ捨て場とも分からないような家々が連なっていた。もちろん廃墟ではなく、いくつかの家からは生活のにおいがうかがえる。家事にあったのか、焼けた後そのままになっている家もあった。ただのゴミの山もあった。 夢の島のようなそれらの光景も、今は一部分のみが残っているといったほうが正しいか。僕が本当に見たかった写真のところはきれいに整地させられてしまったらしく、更地になっていた。すぐ近くに新しくて、立派な市営住宅がそびえ立っていた。 やがて、雨がポツポツと降ってきた。僕は目的を達成できなかった落胆もあってか、雨に打たれているうちにまた、死にたくなった。 気を取り直して、今度は崇仁小学校のほうまで北進することにした。その道中、狭い路地のところで写真をとっていると突然、 「プププー!!」 やかましく、挑発的なクラクションが僕の耳を襲った。驚いて道の隅によけると車の窓から髪を金色に染めたいかにもヤンキー風の男たちが、窓から顔を出し、通り過ぎるときこちらをジッと睨んでいた。 今になってはなぜだか分からないが、そのときの僕には、その出来事がまるで、地元の人を含め、この町全体が、僕を強く拒絶しているようなそんな気がして、仕方がなかった。何か嫌な事が自分に降りかかってくるのではないか、そんな考えがまとわりついて、ピリピリと心がうなった。 そんな、妙な強迫観念に捉われながら市営住宅街の狭い路地を歩いていると、すぐに僕を仰天させる出来事が起こった。とある市営住宅の塀の中から(写真左)、子供たちがおもちゃのピストル(ギンダマ?)をパンパン鳴らす音が聞こえた。 僕は、あまり気にも留めず写真をとっていると、突然、2人の子供がひょいと塀の中から顔を出したのである。普通そんなことは驚くに値しないのだが、その子供らは、2人とも丸刈りで、その顔は浅黒く、まるで戦時中の学童疎開をしている子供達のようだった。そして、その屈託のないような、それでいてどこか冷たい視線を僕に向けていたのだ。 目を合わせて、あっと思うとすぐに子供は首を引っ込めたが、その時僕は「やはりこの町は僕を拒んでいる」と、言いようのない不安に駆られて、一緒につれそっていた同じサークルのS君に、すぐにこの場を離れようと促し、その場をそそくさと退散しようとした。その時後方で、 「パンパンパン」とピストルの音が聞こえたので、すっかりナーバスになっていた僕は、「まさかこちらを撃ってきているんじゃないだろうか」という余計な考えが頭をよぎり、僕の心は激しく動揺した。 崇仁地区を歩いていて、非常によく目に付いたのは、いたるところに張り巡らしてある有刺鉄線の多さと、崇仁児童会館運営委員会なるものが作成している標語の多さである。1つ1つ書いてある事がちがっていて、いったいいくつのバリエーションがあるのか見当もつかない。内容的にはどれも、「部落差別」を直接示すものではなく、非常に遠まわしにそれを匂わすようなものになっている。傑作だったものをいくつか挙げると ふりかえろう 自分の心 もういちど そうだよ 命の重さは 地球の重さ 考えよう 言っていいこと わるい事 う〜ん。さすが京都。標語一つとっても「いとおくゆかし(深い心遣いが感じられて上品である)」、婉曲的な美を表現している。 午後7時過ぎ、小雨のぱらつく中ようやく今回の最終目的地、崇仁小にたどり着いたときには辺りはもう真っ暗だった。崇仁小の静まりかえった白い校舎が夜の闇に映え、僕に畏敬させるような不思議な威圧感を与えた。 現在、崇仁地区は「同和指定地区」のレッテルから逃れる為次々と人が流出し、崇仁小に限らず小学校・中学校の生徒数は各学年たった1クラスにまで激減しているらしい。京都駅から徒歩5分程度という極端によい交通の弁がありながら、このように過疎化が進んでいるのである。そんな崇仁の現状のあまりの痛々しさに僕の胸は、キュッとスリーパーホールドをかけられた。 崇仁小の校門の隣にひっそりと佇んでいる「負けて たまるか」と書かれた小さな石碑が、冷たい雨にぬれていた。 ホームページに関するお問合せはwebmasterへ |