代表者委員長 中口寛継
以下のご質問(3項目)について反論申し上げます。
(1)「南松ノ木町40番地」は通称であり、非公式なものです。現在は住民と行政との話し合いにより、町名が与えられています。どちらの成立にも、崇仁協議会は無関係、というより排除されていました。
(2)公営住宅建設は、地元住民自治会と行政の「鴨川陶化橋上流域環境整備対策本部」との話し合いによるものです。どちらも公式に、崇仁協議会の関与を排除、否定しています。崇仁協議会は、公営住宅の建設に反対していました。
(3)「存在が問題になったのは」韓国ではなく日本のほうが先でした。「ソウル新聞」に掲載された時よりはるかに早く、日本のNHK、毎日放送、KBS京都、京都新聞、毎日新聞、朝日新聞などで、すでに特集が組まれていました。事実誤認があります。
以上の指摘について、
(1)「南区東九条南松ノ木町40番地」は通称ではなく「河川敷全体」の番地です。
公営住宅第一棟・第二棟が建ったところは、新しい町名になりました。崇仁協議会は「崇仁地区の再開発」問題、「河川敷の問題」などの運動を行ってきましたが、行政の公式の場では排除されてきました。
ところで、私たちは3月7日1時30分から、「鴨川陶化橋上流域環境整備対策本部」にて、京都市と話し合いを行いました。
現在「今度建つ第3棟の入居について、河川敷に残っている9世帯は、非常に難しい条件がある」ため、世帯全員の入居問題と立ち退きに伴う補償問題等に関して、崇仁協議会からは委員長(私)と事務局長、事務局長補佐、事業部長、住民対策部長が出席し、協議を重ねているところです。
(2)崇仁協議会は昭和61年頃から「河川敷問題」に取り組み、「鴨川を美しくするシンポジウム」「河川敷の人々に公営住宅を与える署名運動」(写真参照)、また京都市への陳情を行ってきました。
京都市内に河川敷のポスターを張り、平成元年、2年にかけては「リバークリーン・キャンペーン」(写真参照)を行いました。そして京都市は、河川敷問題を放置できなくなったのです。
(3)河川敷の問題は、ご指摘の通り確かに各新聞が散発的に取り上げておりましたが、あまり世評にはならず、京都市も国も動きませんでした。
そこで崇仁協議会では、国、京都市が「河川敷の人々」の立ち退きと補償、公営住宅の建設などを行なわないのであれば、自ら、つまり「崇仁協議会」が土地を確保して、河川敷の人々が無料で入居できる快適なマンションを建設する計画を立案しました。
そのために、河川敷の近くに当時5百坪の土地を購入確保しておりました。「反対」したとは、このときの経緯をおっしゃっているのでしょう。
私の手元に崇仁環境新聞社が発行した当時の資料があります。「21世紀へ向けて京都・東九条を創造する」と題したもので、そこには当時、崇仁協議会が建設計画しているマンションのイラストや、環境整備問題、再開発案などが紹介されています。全引用は長くなってしまいますので、ここでそのなかの一文を紹介します。
──行政はこれまで「京都市の住宅施策の責任」(京都府)、「河川敷は府の管理」(京都市)と、それぞれ責任を押し付けあって実態把握をしていません。この鴨川河川敷問題を解決していくためには、国・府・市の連携と、行政に対して不信感を持ち続けてきた河川敷住民の意思の疎通と、お互い立場を尊重し合う心が不可欠です。
崇仁協議会では、もし両者の話し合いで移転交渉が進展するならば、その受け皿として、河川敷住民のための住宅建設用地(東九条)や、協議会が建設を計画しているマンションの提供もやぶさかでありません。
河川敷「40番地」の環境整備は、河川敷管理者の府がこの地域の管理の見直しを、そして市が福祉施策を、河川敷所有者の建設省の三者が、歴史的にこの地に住まざるを得なかったということを充分に認識し、住んでいる人たちの希望を大切にして施策に反映していくことを心より切望いたします。(崇仁協議会)──
各マスコミの中で、朝日新聞はかなり熱心に河川敷問題に取り組む様子を見せておりましたが、残念なことに国、京都市、そして世評も関心を示さないことから、崇仁協議会の幹部役員会において「まずは韓国の世論を盛り上げる必要がある」と、平成元年、チョー・ヨンピルさんに崇仁地区や河川敷を見てもらうことにしました。
これは、韓国一番の人気歌手・チョー・ヨンピルさんが視察することにより、韓国のマスコミがこれを大きく取り上げるであろうと予測したからです。
思ったとおり、チョー・ヨンピルさんが河川敷を視察したときには、ソウル新聞、韓国KBSも同行して取材を行いました。
この間、ずっとリバークリーン・キャンペーンなどを続けてきましたが、平成3年11月、ソウルと新聞と大阪の韓国領事館が河川敷を視察しました。
河川敷の視察後、当時の崇仁協議会本部の事務所で、ソウル新聞、韓国領事館の人たちとこの問題について話し合いました。
このように、韓国政府が大きな関心を示したことがきっかけで、国と京都市が本格的に動くようになったのです。
平成4年には韓国KBSが1時間ドキュメンタリーを放送しました。また、平成5年に再度取材してドキュメンタリー番組を制作放送しています。
公営住宅第1棟の建設開始は平成7年です。以上が、0番地の経緯です。
ここではあえてゼロ番地と呼ばせていただきます。環境が良くなり、立派な団地が建ったとはいえ、長い年月、この河川敷に水道もないバラックで人々が暮らした歴史を消すわけにはいきません。
事実は事実であり、後の世代には、表面の綺麗ごとだけではなく、真実を包み隠さず伝えていくべきだと思っているからです。
さて、京都市や国という公式の場では、おっしゃるように崇仁協議会は「排除」されてきました。私たちのような団体は、それで良いと思っています。
崇仁協議会は「会のための会」ではなく、地域住民のための会」であり、当時も今も「目的」を果たすために存在しています。名前を残したり、公的な立場で手柄のみを主張して威張るための会ではありません。
今でこそNPOだのNGOなどと立派な活動が広がっており、認知されるようになりました。国の経済援助が利権に結びつく不愉快なシーンも多々見かけるこの頃ですが、多くの方々は相変わらず地道な活動に取り組んでおられます。
こうした活動の根本は「草の根」です。名誉や肩書きのためではなく、地道に、目立たず、各地域で様々な方々が様々な支援活動に取り組んでいらっしゃいます。これらの草の根から、いずれは大きな花が咲き実が成ります。
花は目立ち、実は人々の役に立ちますが、それらを見た人たちは、草の根の存在に思いを馳せることはないでしょう。
さて、今回のご指摘を判りやすく説明すると次のようになります。
「崇仁協議会は、行政からも相手にされないどうでもいい団体ではないか。行政と地域住民がやったことを、自分達の手柄にするとはけしからん」
「国や行政が自ら動くことなど(特に予算支出が伴うと)無い!」というのが日本の常識であります。何らかの突き上げ(マスコミ、市民運動、世論など)があって初めて、行政は「有識者」とか「学識経験者」など呼ばれる肩書きのある方たちを集めて「公式」の場で話し合いを始めます。
この時期になると、どのような問題であっても最初にかかわった人たちや団体は「高い見識がある」と認められない限りは、まず無視されます。
現実に予算が執行され、何らかの形として出来上がったときになりますと、ソレは行政の実績として評価され、首長の政治運動に利用されます。これが、現実というものではないでしょうか。
崇仁協議会は、公式の場で排除されるほどに「地べた」を這っているがゆえに、私たちには国や行政に見向きもされない人たちの姿がくっきりと見えるのです。以上、これがゼロ番地問題の経緯です。以後のご質問などについては、直接私のほうに御連絡くだされば、ご説明申し上げます。
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