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| 崇仁協議会は、設立当初からごく自然に日韓問題とかかわってきた。理由はとても単純だ。崇仁地区においては、日本人と在日韓国・朝鮮人は隣人同士である。私たちは、日本社会からは見えない存在として長年扱われてきた歴史を持つが、在日韓国・朝鮮人も同様なのだ。 普通の人に見えない存在が私たちには見えた。なぜならば、両者の視点は同じだから。人を見下ろしもしなければ、見下げもしない。これが私たちの生き方である。 だから私たちは、歴史の狭間で様々な差別と貧困を強いられながらも、日本の平和と繁栄に寄与してこられた在日韓国人に対して、地方参政権を付与することを求めている。 日本に在住して、日本のあらゆる法的義務を課せられている以上、法的権利を制約することは国連憲章および国際人権規約に鑑みても、今日の国際社会において到底容認されるものではない。そこで私たちは、在日韓国人の地方参政権運動を推進し、京都市民を対象にした署名運動も行ってきた。 隣人を知れば、隣人の問題が気にかかる。彼らの祖国にも興味が湧く。自由主義史観者による歴史教科書が発行されるなど、振り子が右に大きくゆれている今日だが、私たちは生きた歴史を身近に体験しているのだ。これが私たちと韓国との出会いである。 以下に、韓国のマスコミに取り上げられた崇仁協議会の記事のなかからいくつかを翻訳紹介する。 ◆韓国人被爆者支援 東亜日報(平成2年6月28日付記載記事翻訳) 日本の社会福祉団体が、東亜日報社を訪れ韓国人の原爆被害者のための福祉基金にして欲しいと日貨500万円を寄託した。この団体は、京都崇仁協議会で、日本で原爆被害者のための募金活動を行ってきたが、被爆者の中に韓国人が多くいるという事実を知り、韓国を訪問したという。 「京都駅界隈の近くに韓国人被爆者2〜300名が集団居住している街がある。私たちはこの事実を知り心から衝撃を受けました。私たちは日本人被爆者を支援するための活動を行ってきましたが、人類史上類例のないこのような刑罰を耐え忍ばねばならぬのかという気持ちから、戦争を起こした国の国民ではあるが、韓国人被爆者の支援に乗り出しました」 崇仁協議会によると、日本のマスコミでは韓国人被爆者に関する報道は極めて少なく事実が知られていないという。最近、被爆者の自殺や自殺未遂が一部の報道を通じて部分的には知られるようになってきたが、日本社会全体の問題とは捉えられていないそうだ。そこで崇仁協議会では韓国人被爆者のための募金と署名運動を行うことにした。 「過去の韓国文化は日本文化の源流であり、現在の日本の発達は相当部分、韓国の犠牲によって築かれている。このお隣の国に知らないふりをしてはいけません」という同会。 崇仁協議会では、日本政府から韓国人被爆者を完全に治癒してくれる確約を得るまで、被爆者支援の活動を続けていくとのことだ。 ◆日本崇仁協議会、韓国人被爆者を助けようと募金運動を展開 ソウル新聞(平成2年6月29日記事翻訳) 日本京都市で韓国人被爆者の救済募金運動を展開している崇仁協議会は、去る25日来韓し、被爆者救護基金として日貨1千万円を原爆被爆者協会に寄託した。 「日本人として、韓国人の痛ましい過去に対し、とてもすまないと思っていました。被爆被害者を少しでも助ける方法をと考えた末に、募金運動を行うことにしました」と崇仁協議会。 同会は、3年前より在日多韓国人市民権獲得署名運動を行い、現在3万余名もの署名を集め、京都市内の不遇な立場に置かれた韓国人のための墓地造成地に慰霊碑を寄贈している。 崇仁協議会は、京都地域では堅固たる基盤を持つ社会福祉団体として知られている。 ◆在日橋胞ハルモニ11名、生涯の夢叶う。 祖国の土を踏みしめた今、 いつ死んでも… ソウル新聞(1991年5月30日記事・民団上京支部翻訳) 崇仁協議会と朴三中僧侶の援助で、 夢にまで見た祖国の土を踏んだ 在日橋胞のハルモニたち 「胸が押しつぶされるほど恋焦がれた故国の山河を見るこができて、今はもういつ死んでも本望です」 祖国韓国から飛行機でわずか1時間程度しか離れていない地域に住みながらも、ひどい貧困と日本政府の無関心により、渡日以来1度も訪韓できなかった梁ウンスン・ハルモニ(87歳。日本国京都在住)は、釜山金海空港の入国ゲートを通り抜けて朴三中僧侶(慈悲寺住職)の手をにぎりしめ涙にくれた。 17日午前11時30分、梁さんを筆頭に京都崇仁地区のハルモニたち11名は崇仁協議会と朴三中僧侶の援助で金海空港に到着、夢にまで見た故国の大地を踏みしめた。 崇仁協議会では1988年から在日韓国人の貧困層が集団で住んでいる京都市崇仁地区の老人ら100余名に昼食を無料で提供するなど、貧困層に格別な配慮をはらってきた。崇仁地区のなかでも、とくに劣悪な在日韓国人の住宅環境改善のために、同会は一環して日本政府と闘ってきたという。 崇仁協議会は7年前には在日韓国人原爆犠牲者のための慰霊塔建立を推進、去る1991年には京都市で除幕式を行った。彼らは、在日韓国人に対して変わることのない関心を持ち続けていた。 19歳で嫁ぎ、幼さの残る若妻として夫と共に日本に渡り、白髪のハルモニとなって、やっと初めて故国の大地を再び踏みしめた梁ウンスン・ハルモニは「今まで胸の奥底で大きなしこりとなっていた故国訪問の夢をやっと実現することができたお陰で、心の中に持ち続けていた恨の半ばが消え去りました」と、未だに残る慶尚道なまりで朴訥と話し、周囲の人たちの涙を誘っていた。 一方、朴三中僧侶は7年前に在日韓国人原爆犠牲のための慰霊塔建立推進がきっかけとなり崇仁協議会と出会い、同胞すらもなかなか出来ないことを人知れず実現してきた崇仁協議会の会員たちの美しい心に、胸の中で手を合わせる思いだと語った。 梁さんたちハルモニ11名は、19日に慶州ナザレ園・釜山海運台などを観光し、2泊3日の短い帰郷を終え、再び訪れることが出来ないであろう祖国の山河を後にして日本に戻る。 ※Nextをクリックすると、秀吉の耳塚供養にジャンプします。
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