ゼロ番地の住人たち

河川敷の住人たち


京都市が隠し続けたスラム街



劣悪な住環境 ほんの10年位前まで、京都市には行政に見捨てられた人たちの住む地域「0番地」があった。現在では屈辱的な0番地という見えない存在ではなく、40番地という地名がつけられているが、住人の多くが在日韓国・朝鮮人であり、その殆どが強制連行の被害者たちだった。

 日本の敗戦後、多くの韓国・朝鮮人が祖国に戻ったものの、戦火で帰る場所を失った人たちもまた多かったのである。そうした人々が鴨川沿いにバラックを立てて住み着き、いつのまにか0番地と呼ばれるようになっていた。

 冒頭に紹介した写真を見れば一目瞭然、戦後の荒れ果てた状態がそのまま続いて今に至っている。行政の恩恵がないために、下水どころか生活廃水もし尿も垂れ流しである。

ゼロ番地改善に取り組む完成した団地

 現在、崇仁協議会の運動が実り、40番地の住人たちの立ち退きが始まっている。彼らを収容するために、川沿いには3つの団地建設がはじまり、1つはすでに完成した。ところが、この立ち退きを巡って、住民と行政サイドの間で軋轢が生まれている。あまりにも廉価な立退き料や約束反故など、住民の立場を配慮しない行政のあり方が原因である。

 そもそもこの存在が問題になったのは、日本ではなく韓国だった。崇仁協議会の運動にもかかわらず、京都市はおろか京都府、日本政府すら「日本国民ではない」ために40番地の住人救済を行おうとはしなかったのだ。そこで崇仁協議会はこの問題を韓国に訴えた。これが韓国のマスコミに大きく取り上げられ、韓国政府という外圧によって日本はやっと重い腰をあげたのである。

 現在は立ち退きと共に新団地への入居が進んでいるが、全ての問題がこれて解決したわけではない。この件については改めて紹介する予定だ。なお、以下に当時のソウル新聞が特集した記事を翻訳紹介する。



■ 康秀雄特派員、京都韓人村「崇仁」に行く

日帝徴用韓人・子孫3千余名「賤民」暮らし

昔の白丁村に流れ着き冷遇のなかで望郷の想い
生活環境劣悪、就職・結婚などにも不利益

対日外交の死角地帯を崇仁協議会だけが救済運動



 日本には未だ差別を受けている韓国・朝鮮人が多い。「差別」という穏やかな表現より、むしろ行政当局によって見捨てられた状態というほうが合っている。彼らは「二重差別」の苦痛を味わっているのだ。

 戦前・戦後に強制的に日本に連れて来られ、冷遇を受けた韓国・朝鮮人たちは、現在、江戸時代に賤業に従事していた人たちが住んでいた地域に居住しており、実態的・心理的差別のなかで失意の日々を過ごしているというのが実情である。

 世界第一位の経済大国日本にも、このような地域があったのかと驚嘆した。劣悪な環境条件のもとで、戦後46年間、行政の恩恵を全く受けられなかった地域。さらに驚くことに、そこは年間3800万人もの観光客が訪れる日本第一の古都・京都の玄関である駅前からわずか数分の場所にある。その地名は「崇仁地区」と「東九条地区」である。

 韓日両国どちらもが目を向けない捨て去られた地域。ここに住む韓国・朝鮮人たちはそれでも寂しくはない。渾身の力を尽くして彼らを救おうと活動する「崇仁協議会」会員たちの、人類愛が余りにも感動的であったからだ。

 東九条地区のなかでも最も環境が悪い場所は、鴨川河川敷(九条・東山橋〜十条・陶化橋)に建てられたバラック小屋(村)であった。周辺は割れたガラスやペットボトルなどのプラスチック類、破損した冷蔵庫などのゴミが捨てられ、さらに糞尿はそのまま高瀬川から鴨川に流れ込んでいた。

 綺麗に整備された鴨川上流には水鳥が多く棲息していたが、ここにはゴミが産卵しているために「カラス」しか居ない。現在この地区に約150世帯(300人)が住んでいるにもかかわらず、行政の空白地帯であるために正式な名称も付けられず、長年に渡って通称「0番地」と呼ばれていたが、ごく最近になって「40番地」と呼ぶようになった。

 ここは東京〜博多間を結ぶ超快速電車「新幹線」が走る京都駅から至近距離にあるが、電車からは見えない。京都市が、都市の恥部であるこの地域を隠すために、わざと周囲に高層の公団・松ノ木団地を建設したと住民たちは言っている。従って、この地域の存在を京都市民も知らずにいる。韓国人記者が取材のために訪れたことも初めてであった。

 狭い路地をくぐりぬけてこの「村」を見つけ出したとき。たとえバラック小屋の住居であっても、家の前に「チシャ」や唐辛子、もちろんニンニクも植えてあり韓人村であることをすぐさま感じとることが出来た。

 40年以上も前からここに住んでいるという徳順さん(60)は次のように語った。

「ここに日本人が住んでいたら、すぐに移住対策が取られていたでしょう。私たち『橋胞』が住んでいるため、日本は終戦後から今日に至るまで『検討する』と言いつつそのままになってきました。当時『朝鮮人はニンニクの匂いがする』と苛められ、泣かされてばかりで学校にも行きませんでした。そのために名前もちゃんと書けないんですよ……」

 彼女は17歳のときに古道具屋をしていた男と結婚して2男1女をもうけたが、亭主は妾を作った挙句に韓国で死んだという。子供たちは、ここに住むのはイヤだとよそに行ってしまい、彼女は今1人で暮らしている。

 問題はここの住環境が劣悪であることとともに、昔、日本の賤民が住んでいた地域であることだ。日本は今から400年前の徳川幕府時代に士農工商という身分のほかに、さらに下位のエタ・非人という身分制度を作った。

 エタ・非人は刑場の雑役や屠殺場の仕事などに従事し、身分制度の最下層階級として居住地域も強制的に指定された。このような賤民の居住地域は全国各地にあったが、なかでも京都の中心を流れる運河・高瀬川の下流、七条通から九条通に至る「崇仁」地区が最大規模のものであった。

 この身分制度は明治4年(1871年)の「解放令」によって無くなった。しかし、制度上の差別は無くなったとしても、心理的・実態的差別は依然として存在する。

 一般の人たちはここの住民たちと仲良くしようとはせず、白い目で見る。従ってここの居住者たちは就職難、結婚難を抱えることになり、生活環境、教育・文化水準、職業においても一般社会から差別を受けている。このような場所を日本では「同和地区」と呼んでいる。

 日本には福岡・奈良・京都・兵庫・大阪など有数の同和地区があるが、その中でも京都人の排他意識が最も有名で、文字の持つ意味そのままの「同和」は実現していない。ここ、京都・崇仁地区は面積256000平方メートル、世帯数1400、人口3033人の住民が住んでいる。

 東九条地区・鴨川河川敷には、戦争によって強制連行された韓国・朝鮮人たちが、様々な理由で祖国に戻れず望郷の念を抱きながら、この地で急造住宅を建てて住み始めた。京都市当局は、これらの住居は不法占拠であるとして長い間水道・電気施設を設置しなかった。

 長期にわたる交渉の末、水道が設置されたのが8年前で、それまで彼らは保健所の検査で「飲料に適さない」と指摘された川の水で生活していた。電気は昭和40年(1965年)頃に通じるようになったが、ゴミの回収や汚物処理は未だになされず、自然のトイレとして高瀬川から鴨川に流れていく。

 0番地の存在に対して、行政当局は未だに責任のなすりつけあいを行っている。京都府は「京都市の住宅施設に責任がある」と言い、京都市は「河川敷地の管理は府の責任である」とし、実態把握さえもせずにいる。

 日本人は「同和地区」に住む人たちを以前は「部落民」と呼んでいた。この部落民の解放のために、大正11年(1922年)「全国水平社」という組織が民衆によって自主的に結成され、部落間に対する社会的認識を変える為に尽力した。

現在水平社は4つの解放運動「部落解放同盟」「全国部落解放運動連合会」「全日本同和会」「全国自由同和会」に分かれており、全体の会員数は64万人と言われている。

 日本では、部落民だけが社会的差別を受けているのではなく、部落民解放を挙論する自助者も差別されている。この問題は、それだけ敏感で難しいため、差別的な言動や態度があっても、これに関連する刑事事件以外は警察も取り扱おうとしない。崇仁地区と東九条地区に住む韓国・朝鮮人たちは、本当の意味での部落民ではなくとも、住むところがなくここに住んでいるという理由で部落民扱いされ、二重の差別を受けている。

 しかし、彼らは今寂しくない。1986年5月に発足した崇仁協議会の献身的な後押しがあるからだ。崇仁協議会の最も重要な事業は環境啓発活動である。独自の都市再開発案を作り、当局によって開発が阻止されてしまった崇仁地区の環境改善と駅周辺の活性化を促進しようと取り組んでいる。

 崇仁地区は、京都市当局によって改良地区に指定されたものの、全く開発がなされていない。新築や改築などが制限され、しかも市当局自身は開発事業に着手しようとはしない。そこで崇仁協議会は市当局を相手に「改良地区指定解除訴訟」を提起した。去る5月13日には第10回口頭弁論が開かれている。

 崇仁協議会では、このような再開発事業だけでなく雇用促進運動、針治療、独居老人のたろに毎日100食分の夕食弁当の提供、韓国・朝鮮人原爆被爆者のための募金活動など、幅広い社会奉仕活動を展開している。

 この活動力は「わたしたちはヒューマンシップの原点に立つ」という「運動規則」第1条から発現している。同会は言う。「歴史的経緯や現状から判断しても、この地域の住民は明らかに被害者である。しかし、被害者意識を根底にした損害賠償請求的思考方式は多極的な見地から、果敢に捨て去らなければならない。この地域内のことはこの地域の住民自らの力と知恵によって解決しなければならず、他力に依存していては駄目だ」

 このように、自主自立の精神のもとで自ら環境整備をしようという住民意識は最も大切ではあるが、一番の問題点は韓日両国の行政当局の姿勢である。日本側は暴力組織と関連していたり、同和地区または韓人系地域に関連する問題に行政力を発動しようとはしないし、官吏たちも避けて通ろうとする。

 また、韓国側では、このような問題の実態を把握できずにいるため対策を考えられるはずもない。韓日間の交渉過程で、この地域の問題は当然議題に上がり解決策が模索されなければならない。

 崇仁地区ならびに東九条鴨川河川敷は、日本の政治・行政の「0番地」であり、韓国外交の空白地帯であった。

■ 京都 韓人 月村 コリアタウン構想

  本紙報道後「忘却地帯」に関心が集まる。
 「同胞惨状知らなかった」と民団でも対策に乗り出す


 一つの物事は色々な角度から見ることができる。日本第一の観光都市京都に白丁村があり、ここに日帝徴用の韓人の子孫らが流れ着き、劣悪な環境の中てせ実態的・心理的差別を受け、ため息で日々過ごしているという事実が報道されるや各界からの反応が寄せられた。

 京都市に住む中口姫子という女性は、こんな手紙を送ってきた。

「京都に住んでいる人たちですらも知らない崇仁地区の問題を丁寧に取り上げて下さった有難さは言葉では言い表せません。言論の力を知らしめてくれる快挙でした。日帝時代、徴用で連れてこられ、使うだけ使われて、戦争に負けるや否や彼らは捨てられました。行くところもなく彷徨った挙句、白丁が住む「部落」村にたどり着き、小川の横や小川の上に掘っ立て小屋を建てて、命を繋ぎました。歳をとって病気になった人、2世・3世かまさにこの事実を証明してくれます。恨みを心に抱き長い長い年月を生きてきた崇仁韓国人たちのために、新聞が大きな力となってくれるように望みます」

 民団中央本部の呂起成民生局長(当時)は、このように語った。

「私たちが知らずにいた事実を新聞で知りました。決して適当にやり過ごすことの出来る問題ではありません。この先徹底した対応策を準備していきます」

 京都民団でも、この地域を訪問して実態を調査し、環境改善のために努力すると語っているし、韓水山氏のような作家は「非常に興味ある素材だ。この地域を取材して作品化してみたい」と意欲を見せている。

 しかし、反応は必ずしもこのように肯定的な面だけではない。駐日韓国大使館の責任ある関係者の1人は「どんな社会でも良い暮らしをしている人と良くない暮らしをしている人がいるじゃないですか。あまつさえ、そこに住む韓国人たちは日本政府から補助金を貰っているということだし……」

 またこのように語る関係者もいた。 「そこの韓国人を助けている崇仁協議会という団体は、断定していうことは出来ませんが、不動産投機を目的とする団体だと思われます。従って私たちはそんな団体の進める問題に手をつけるわけにはいかない……」

 角度により違う意見を見せている。しかし、問題は簡単なところにある。現在、日本に住んでいる我が同胞の一部が白丁部落の悪い環境のなかで「二重差別」の悲しみをなめながら生活しているという厳然たる事実である。その環境を改善する努力は、日本国内だけの問題ではないということだ。

 この問題の解決過程において、地域の韓国人らを助けている支援団体「崇仁協議会」の性格を問う必要はない。結果的に、それでこの地域が開発され、社会福祉活動に取り組む崇仁協議会の進める都市再開発構想が推進するなどの利益が生まれたとしても、それこそ第三者が関与する問題ではない。
 



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