自由の広場スージータウン

自由の広場「スージータウン」が生まれた理由



高瀬川の新しいイメージ  崇仁同和地区は、昭和35年に住宅改良地区に指定されました。その一環として、古い家屋から住人を立ち退かせて改良住宅(団地)に収容する事業が進められました。そのため、地区外の方からは「家賃の安い同和団地に入って、あいつら得をしてるやないか」、「逆差別や」などと言われたりしています。

 しかし、改良住宅の入居権は一代限りとなっています。住んでいる人が亡くなったら京都市に没収されるのです。しかも、地区内の土地・建物の価格は、隣接地と比較すると驚くほど低価格で京都市に買い上げられています。

 このように、同和地区という線引きがなされてどうなったというと、当時ここには約3000世帯が住んでいたのですが、現在は約1200世帯にまで減少しています。それは、「同和指定地区」=「部落出身者の町」と行政が確定したことによって、働き盛りの若い人たちが差別回避のために地区から出ていってしまったからです。残ったのは、仕事もなく民生保護を受けなくては生活できないという高齢者ばかりです。

 彼らには購買力がありません。そのため地区の商店も衰退していきました。今の崇仁地区は経済力のない死にかけた地域となっています。新たに転入してくる人たちは殆ど皆無ですから、この状態を放置しますと、いずれ町から人は居なくなります。私たちからすれば、京都市はその時が来るのを待っているとしか思えません。

 都市としての京都のイメージは「観光地」です。それ以外に目新しい産業などありませんから、都市の活力という面では全国政令指定都市のワースト3と言われているようです。古都の景観保存、文化財保存に縛られて、新しい産業を創出するパワーがないのです。

 五条から北は御所や二条城など文化的景観的に整っていますが、南の崇仁地区から九条にかけての街並みに目を転じると、同じ文化都市・京都とは思えないほど殺伐と荒れた景観が目に入ります。これが、京都駅前のもう一つの顔なのです。

 部落と申しましても、日本三大部落の一つと言われる崇仁地区では、日本ではじめて人権宣言を行った水平社が設立されるなど、日本の負の歴史を知るうえでも意義ある地域です。

 私たちの故郷が失われてしまう前に、地域の良さを失わず、経済基盤を確立して自立できる環境をと、京都駅前の地の利のよさを生かした街づくりのために崇仁協議会を設立し、スージータウン構想を打ち出しました。

崇仁地区への提案「自由の広場」

 自然に同化したデザインをテーマにしてきたルイジ・コラーニさんが1990年に発表した作品が「自由の広場」です。彼は、日本の同和問題と崇仁地区のあり方に大きな関心を持ち、地区の人々と対話し、この「自由の広場」を提案しました。このとき、ルイジ・コラーニさんが行った講演を紹介します。

自由の広場「スージータウン」

目に見える形で訴える

工業デザイナー ルイジ・コラーニ



 京都は、日本で一番文化があふれた街です。美しい、古い、伝統的な建物がたくさんあります。また、有名な芸術家や画家、小説家、文人が活躍した所です。このように素晴らしい文化的、歴史的背景を持つ街でありながら、私には京都市がこの文化的な背景を現代に伝えようとしているようには思えないのです。

ルイジ・コラーニさん  私はベルリンで生まれました。そのベルリンで、皆さまもご存知のように自由への大きな進歩と改革(東西ベルリンの壁崩壊)が始まりました。自由を求める戦いが、ここ京都でも行われていると私は確信しています。

 この戦いを京都だけにとどまらず、世界の人々のためにやっていただきたいと私は考えます。目に見える形で、今までとの全く形で、世界に対して皆さんの問題を訴えるべきだと思うのです。それは、京都全体の復活になるようなものであるべきで、これが自由の広場です。

 皆さんは水琴窟(すいきんくつ)という仕掛けをご存知でしょう。大きな甕(かめ)に一雫(しずく)ずつ水を落としますと、この水琴窟は素晴らしい音色を出します。水とは、それ自体が極めて大きな自然との調和ですが、水滴が水の上に落ちますと、真ん中で水柱が上がり、周辺に円い輪が広がりますね。

 それが私の「自由の広場」の基本的なアイデアでした。京都には経済的な調和が欠けていると思います。経済的活力を取り戻すには、普通の方法ではダメだと思います。ですから私は日本だけでなく、世界が注目するようなデザインを考えてみました。

 京都は文化にあふれる街ですから、この街にとってデザインは非常に大切です。そのなかに私の哲学と申しますか、世の中に直線は存在しないという基本的な思想を入れてみました。曲線こそ一番きれいな線であり、それを踏まえて調和にあふれた水を通して、一滴の美しさ、水柱と水の輪で、自由を表現しました。

 自由を求める戦いは、目に見える形で世界にアピールすべきだと確信しています。この建築物で、世界の目を素晴らしい文化的背景を持つ京都に向けさせなければなりません。京都は、日本の文化の中心として大事な役割を果たしてきました。その精神はまだ完全に消滅していないはずです。再びこの精神を燃え上がらせなければなりません。

追記
 ルイジ・コラーニさんのデザインした自由の広場が発表されてから約10年。残念ながらいまだに建設の目途が立っていない。その大きな原因の一つとして、東京三菱銀行の同協議会口座から156億円もの大金が消滅したという事件がある(いずれ詳細説明予定)。しかし、崇仁協議会はこの夢を必ず実現しようと、地道な地域活動に取り組んでいる。

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