藤井鉄雄という男(5)


内浜会解散、そして崇仁協議会設立


   鉄雄が内浜会を結成したのは20歳だった。内浜は崇仁地区の旧名である。旗上げのときは胸を張ってはいたが「自分はやくざにしかなれない」のだというコンプレックスを抱えていた。   

 暴力団の資金稼ぎとして一番手っ取り早いのは売春だ。だが、国定忠治を理想とした鉄雄は「女は弱いもんや、その女でめしを食おうと考えたらあかん」と若い衆たちにも売春による稼ぎを絶対に許さなかった。資金源はストリップ小屋やパチンコ屋の用心棒、手形の取立てぐらいである。いつもピーピーしていた貧乏組織だった。   

 内浜会を結成したものの一向に儲からない。そこで思いついたのが賭場荒らしである。大きな組が仕切っていた賭場を急襲し、売上金をかっぱらうのだ。いわばヤクザ同士の揉め事で素人には迷惑をかけないという思いがあったようだが、襲われた方はたまったものではない。親分衆は賭場荒らしの鉄雄を警察に訴えた。   

 賭場荒らしを捕まえるなら、賭場を開帳した者も同時に捕まえるのが筋と思われるのだが、京都の警察は親分衆の訴えを聞き入れ、内浜会のみが摘発されることになる。   

 「賭場を開いたヤクザを逮捕せず、警察は金持ちヤクザの味方をするんかい」   

 このような調子では裁判官の心証も悪くて当然だ。結果、若い衆をかばった鉄雄は、懲役9年の刑を受ける。そのとき鉄雄は21歳。満期を勤めれば30歳でやっと出所となる。  

 鉄雄が服役している間、細々とであったが、組の掟を守り売春、麻薬には手を出さず内浜会は存在し続けていた。    

 鉄雄が出所すると京都で大きな顔をしていたのは大阪ヤクザである。向こう見ずな鉄雄のこと、当然摩擦が起きる。抗争のなかで、鉄雄はまたもや逮捕された。銃刀類不法所持である。その結果が懲役3年6ヶ月。   

 刑務所生活がまたもや始まった。  

 木工や農作業のない日曜日、鉄雄がある部屋の前を通りかかったところ、ヤクザの幹部と思える大男が寝転がって差し入れの菓子を食べている横に、学生らしき若い男が正座して本を読んでいた。後で分ったのだが、全学連のリーダーだった。その姿を見て、鉄雄はハッとした。威厳のある姿に衝撃を受けて思わず立ち止まってしまう。   

「勉強せなあかん。こんなことしてる場合じゃない。本を読んで知識をつけなあかん」  

 鉄雄は両手を握り締めていた。勉強することを忘れ、本能と勘だけで生きてきた日々。「貧乏人を救わなあかん」「弱いものをいじめたらあかん」養母の教えがよみがえってきた。   

 学生に刺激を受けた鉄雄は、まず労働者の味方であるマルクス・レーニン全集に取り組んだ。ところが、本を読もうとして、自分がいかに無学であるかを思い知る。書いてある内容が理解できないのだ。中学すらまともに出ていない。基礎学力が欠如していることを思い知った鉄雄は、通信教育を受けさせて欲しいと頼み、許可を得る。   

 鉄雄は、勉強する喜びを知った。作業を終えた夕食のあとや日曜日、時間を惜しんで勉強を続け、中学、高校課程を修了、ついには大学入試検定試験を受けるまでになった。読書も、マルクス・レーニン主義だけでなく民主主義、自由主義の思想書も読んだ。キリスト教、回教、仏教から各種の民族宗教など。なかでも鉄雄に影響を与えたのはきリスト教である。そこには「愛」があった。さらには老荘学、儒教などの思想書も片端から読んでいった。   

 そして生まれたのがヤクザに対する疑問である。麻薬、売春をやらないといったところで、所詮はヤクザではないか。しかも、好き好んでヤクザになる人間などいない。全ての原因は貧困なのだと…。貧困が人間を卑屈にし、疎外感からヤクザになる。しかも差別がこれを助長する。まっとうな職につこうとしても社会はこれを受け入れてくれない。生きるためには善悪など考えている暇はない。   

 読書は鉄雄に「人は何のために生きるか」を突きつけた。生きるとは、生物の本能であり、しかも神聖な営みである。突き詰めると、自分のために生きるか、人のために生きるかに集約されていく。ヤクザは他人のために生きているように見せかけて、実は自分のためでしかない。   

 次に鉄雄は貧困と同和について疑問を持った。ある地域が「同和」として固定化され、そこに利権が生じる。国や自治体からの補助金を同和団体がピンハネし、末端までは行き渡らないようにシステム化されてしまっている。   

 ルソーの「懺悔録」、モンテスキューの「法の精神」、スミスの「国富論」、そして最後に到達のは「陽明学」である。良知、知行合一、事上練磨の三綱領のなかでも、知行合一、よいと思ったことはすぐに実行する。鉄雄は「これだ」と思った。   

 昭和60年10月17日。36歳になっていた。刑務所を出た日である。すでに組には解散命令を出していた。雨の中、傘をささずに七条に向った。1人で静かに出所祝いをしようと思った。昔可愛がってくれた近所のおじちゃん、おばちゃんは元気だろうか…。   

 ところが、夜の七条は灯が消え絶えていた。商店は全てシヤッターを下ろしたままで、電灯すらついていない。1人として歩いていない。   

 「ふるさとが死に絶える」   

 ゴーストタウンを前に、呆然とした鉄雄は思わず口に出した。子供のときの七条は活気に満ちていた。やんちゃくれの子供達が走り回り、飲食店や簡易宿泊所が建ち並び、靴やかばんの製造業が活発に動いていた。夜店も出て、貧しいながらも生き生きとした営みが行われていた。   

  あとになって鉄雄は、これが京都市の住宅改良事業の結果であると知る。3日ほど旅館に泊まった間、出会ったのは老人ばかりである。昔の悪友たちも大半がいなくなっていた。   

「あんた、セキさんとこの鉄っちゃんやないか」  

 生家付近の河川敷で90度に腰の曲がった老人に声をかけられた。   

 「長い間、見いひんかったなあ」   

 まさか刑務所から出たばかりだとは言いにくい。   

 「七条はえらい寂しい町になったなぁ」   

 「京都市が悪いんや。わしら、何も知らんと思うて、だましよるんや。ここからわいらを追い出そうとしとるんや」   

 「立派なアパートが建ってるやんか」   

 「あれがあかんねん」   

 「でも、おっちゃんは民生保護もろうとるんやろ」   

 「せや。でも、子供も孫もみ〜んな出ていきよった。わし1人や」   

 七条のうらぶれた姿を見た鉄雄は、過疎化の原因が同和対策という人災だと知り、自分のすべきことを確信した。それが自分にとっての「生きる」道なのだと。崇仁協議会はこうして生まれた。   

 活気のあった七条が過疎化の一途を辿るようになったのは、京都市が同和対策の一環として取り組んだ住宅改良事業のせいにほかならない。昭和35年、不良住宅地改良法を全面的に改正してできた住宅改良法によって、京都市は崇仁地区を改良地区に指定し、住宅建設に取り掛かった。   

 指定といっても地区全部を同時指定するのではなく、昭和35年から60年にかけ5回にわたって指定し、改良住宅を建設してきた。具体的な方法は、まず地区内住民の土地、家屋を周辺の一般家屋よりも安い価格で買収する。つぎにそれを取り壊し、更地にして中層の改良住宅を建てる。入居条件は、土地や家屋を市に売却した人だけで、しかも一代限りの賃貸だ。   

 入居者が死亡したり転居した場合は空室になるが一般の人は入居できないので、空室は増える一方となる。しかも住環境は決して良いものではなかった。5階建てでエレベータなし。老人にとって日常の生活すら大変である。   

 部屋は狭く、浴室もない。狭さに耐えかねてベランダなどを自分で改築すれば「違法建築」として即時退去を命じられる。その上、指定区域内では、家屋や店舗の新築はもちろん増改築も一切まかりならない。これについて、法的には知事の認可があれば認められるが、事前審査を受け持つ京都市が握りつぶしてしまうので、実質上認められていない。   

 鉄雄は、これこそ命をかけるに値する大事業だと確信する。刑務所で無駄に過ごした日々を取り返すような気持になった。崇仁協議会の発足は昭和61年5月8日である。鉄雄は前科前歴を一切隠さなかった。なかにはアレコレいう者もいたが、もともと地区には行き場がないままヤクザ家業というコースを歩む者が多いため、鉄雄の前身は問題にはならなかった。   

「崇仁地区の線引きを取り外そう」  

「崇仁地区の解放は住民の手で」  

 活動の過程で真っ向から対立したのが既存の同和団体だ。線引き撤廃を訴える崇仁協議会の活動が広がるにつれて、各団体から様々な嫌がらせが行われるようになる。「協議会が老人に配っている弁当には毒が入っている」と宣伝した団体もある。  

 実際に襲われたこともあった。当時、四条堀川に崇仁協議会の事務所があったのだが、鉄雄が事務所を出たとたん、黒い服を着た4〜5人の男達に取り囲まれた。   

「藤井か」  

「そうだが」  

「あの運動から手を引け」  

「あの運動ってなんや」  

「崇仁協議会のことじゃ」  

 言うなり男の1人が鉄雄の太ももを匕首で突き刺した。ケンカで鍛えられた鉄雄にとって、やり返すのは簡単である。だが、彼は一切手を出さなかった。しかも、こうした妨害は何度も繰り返された。事務所にピストルが打ち込まれたりと、ヤクザ顔負けの嫌がらせが続くなか、鉄雄はそれらの団体トップと話し合い、崇仁地区の運動についての理解を求める努力を続ける。結果、既存団体は協議会の活動に介入しないとの合意を取り付け、今に至っている。  

 藤井鉄雄が崇仁協議会を離れた今日、設立の基本理念は中口寛継が受け継ぎ、今も活発な活動を続けている。会にとって、東京三菱銀行事件がいかに大きな痛手となったか、ここで述べるまでもないだろう。本HPが、藤井鉄雄の人生にあえて触れたのは、崇仁協議会は同氏無くしては生まれていなかったということと、地区の環境を理解してもらうためである。  

 なお、現在の崇仁地区には、密集した住宅の中に、2メートルほどのフェンスで囲まれた小さな空き地が点々と混在している。京都市が買収したもので、利用できないまま長年放置されている。